嫌いになれればよかったのに |
(1) 明かりを付けず、真っ暗なバスルームで菊は荒い息をつきながら蹲った。薄い寝間着越しに触れるタイルが冷たい。けれども連続的に襲う吐き気に動くこともできず、ただひたすらに症状が落ち着くのを待つ。 周期的に、菊は体調を崩す。原因はわかっていた。過度のストレスだ。 引きこもりの状態からアルフレッドに無理矢理開国という形で外に出されて数百年。がむしゃらに強くなろうと、立派な国になろうとただそれだけを目標に生き、今に至る。ある意味でそれは達成されたと言ってもいいのだろう。 周りの強国から小さな東の島国だと馬鹿にされないように、背筋を伸ばし凛と前を見据え、心の奥底の怯えを隠すことばかり上手くなる。そうしてそのしわ寄せは時折こうやって菊の身体を蝕むのだ。 しかし今回はタイミングが悪い。明日から各国が集まった会議が始まるというのに、泊まったホテルで体調を崩すなんて。 鎖国していた頃は良かった。他の国のことなど気にせず、ひっそりと生きていれさえすればよかった。 ―――それよりも前は、菊を庇護してくれる大きな手があった。 あの頃から菊は人見知りで、まして他の国からはまるで認められていなかった。けれどもあの人だけは菊を認めてくれ、愛してくれた。大事に大事にその腕に囲って、いろいろなことを教えてくれた。 菊はただ、安心して甘えていればよかった。 それでも、自ら手を離したのは自分。大切だったあの人に、刃を向けたのはこの手ではないか。 (ああ、あの人がこんな私を見たら、どんな反応を示すでしょうね。) 驚く?嗤う?嘲る?それとも―――心配して看病してくれる?昔みたいに、治るまでずっと傍にいてくれるのだろうか。 「はっ・・・はは、はっ・・・!」 菊は頭に描いた光景に、己を嗤った。嘔吐感はますます深まり生理的な涙が滲む。 荒い息をついて、胃のあたりを抑える。大丈夫、じっとしていればじきに収まる。そうやって一人で耐えてきた。耐えることを、覚えたのだ。 ああ、それでも。自分はあの人のことを、あの温もりを忘れることができない。 「哥哥・・・。」 菊は、ずっと今まで封印してきたその呼び名を、不調を理由にただ一度だけ小さく呟くことを自分に許した。 (2) 体調は、すこぶる悪い。昨日あれからずっとバスルームに這い蹲っていたが一向に吐き気が収まる様子はなく、今日は水を飲むことすら無理で不快感がつきまとう。 それでも菊は、スーツに身を包み、笑顔を浮かべた。殆ど何も食べていないことも、一睡もしていないことも、体調を崩していることも周囲には知られたくなかったし、己の本音を隠すことには慣れている。 事実会議前にと各国への挨拶に回ったが、その間誰も菊の不調に気付くことはない。久々の再会を喜び、世間話に興じる。菊はそのことにほっとしつつも、早くこの時間が終わってしまえばいいとひたすらに願った。 「菊・・・?」 怪訝そうな声が背後から聞こえてきたのはそのときだ。アルフレッドの手にある特大ハンバーガーの匂いに吐き気が強くなるのを耐え、彼のいつもの我が儘をやんわりと交わしていた菊は、振り返って自分の名を呼んだ男を振り返る。 「王さん・・・。」 できれば一番、顔を合わせたくない人だった。さっきまで離れた場所でイヴァンに絡まれていたから、上手く立ち回りそのまま会議になだれ込ませるつもりでいたのに。 菊は慎重に、全神経を使って“いつもの自分”を作り上げることに集中した。 「お久しぶりで・・・。」 「お前!何アルかその顔!」 だが菊の努力は一分も持たず耀によって打ち砕かれる。腕を強い力で捕まれて、菊は僅かに顔を歪めた。 「どうしたのですか?そんなに慌てて。」 「どうしたもこうしたも・・・!何でそんな状態でここに居るアルか!?」 「何を仰っているのか、私にはわかりかねます。」 「菊!!」 耀と菊の剣呑なやりとりに、何事かと各国の視線が集まる。このような場で視線を集めるのも、周囲に不調を悟られるのも不都合で、菊はそっぽを向いた。 だがそれも、耀の手に顎を捕まれ、無理矢理視線を合わせられる。 「我を舐めんな・・・!」 びりびりと肌を震えさせるほどの苛烈な怒りを宿した耀の顔は、壮絶なまでに恐ろしく、また美しかった。菊はそんな場合ではないと知っていても、密かに見とれる。 「お前をどれだけ昔から知ってると思ってる・・・!立っているのもやっとの癖に、それで会議に出席できると思ってるアルか!?」 「私は・・・。」 大丈夫です。そう答えようとしたが、そこまでが菊の限界だった。ぐらりと回る視界に、目の前の身体に反射的にしがみつく。悲鳴のように自分の名を呼ぶ耀がしっかりと支えてくれることに安心し、菊は意識を手放した。 (3) 頬に触れた柔らかくも暖かい温度に、ふと意識が引き上げられた。この感触は知っている。いつも菊が体調を崩したときに、不安な心を和らげてくれたものだ。菊は小さい頃から身体が弱かったから、いつもこの温度に救われていた。 (あの人が、傍にいる。私の、大好きな、大好きな―――・・・) うっすらと目を開いて、まず視界に飛び込んできたのは、酷く驚いた顔をした耀の顔。何故そんな顔をするのだろう。不思議に思ったところで、菊は我に返った。 違う。もう既に菊は耀の庇護下にある小さな子どもではない。彼に刃を向け、欧州と手を組み、2回目の世界戦争で大敗を喫し、復興を経て今日は会議に出席し―――そして、倒れたのだ。 昔のことを思い出していたこともあり、今の菊は酷く無防備な表情を晒していたはずだ。無意識のうちで未だ耀のことを信頼しきっている自分を思い知らされ、苦い気持ちが広がる。 「・・・気分は、どうアルか。」 我に返るのは、耀の方が早かった。ぎくしゃくとした空気のまま、菊は僅かに首を振る。 「大丈夫、です。」 ぐっすりと眠ったからか、会議の時よりはずっと気分は楽だった。先程も何でもないとしらばっくれながらも倒れたのだから、信用してもらえないかもしれないが。 案の定、耀の表情は曇ったままだった。 「・・・まだ顔色が悪いアルな。」 そう言って、菊の傍を離れる。そこでようやく菊は自分が寝ているのが恐らく耀がこの会議のために利用しているホテルの部屋だと気付いた。全体的に中華風の内装で、近くに置いてある鞄にも見覚えがある。 それにもしかしてこの香りは―――。 記憶に馴染む香りに戸惑っていると、戻ってきた耀から茶碗を突き付けられる。 「飲め。」 鼻を刺激する漢方の香りに眉を下げる。それこそ幼いときに良く耀に飲まされていた。これが兎に角苦い。子どもには耐え難い味で、良く愚図った後に悶絶させられた記憶がある。 躊躇ったまま腕を伸ばさないでいると、耀が眉を顰める。 「・・・別に毒なんか入れてねーアルよ。」 「そんなこと―――。」 耀が自分に毒を盛るかもしれない、なんて可能性は、はじめから考えたこともない。菊はそのことに気付き愕然とした。自分はそうされてもおかしくない程のことをこの人にしたというのに。 仮に耀が毒を差し出したとしても、菊は一片の疑いも抱かずにそれを残さず飲み干すだろう。死ぬその瞬間まで、この人のことを信じたまま。 突き付けられた己の本心に眩暈がした。何だか泣きたいような気持ちになって、菊はあれだけ苦手だと思っていた漢方の味もろくにわからないまま飲み干すと、そのまま大人しく再びベッドに潜り込んだ。耀の部屋のベッドだが、どうせこの体調では起き上がることは許してもらえまい。 「もう少し、寝ます。」 「わかったアル。」 耀の手が、ポンと菊の頭を一撫でして離れていく。そのまま耀が部屋を出て行くまで、傍にいてほしいという願いを口に出さないよう菊は必死に耐えた。 「嫌いに、なれればよかったんですけどね・・・。」 ぽつりと呟いた言葉は、自分でもみっともなく掠れている。菊は枕に顔を埋めて揺れた感情をどうにかなだめようとした。 刀を向けたあの日、心さえも切り捨ててしまえれば良かった。嫌いになりたかった。嫌いになってほしかった。そうすればきっとこんなに辛い気持ちになることはなかったのだろう。 未だ優しくしてくれるあの人も、それを受け入れて頼ることをやめられない自分にも腹が立って仕方がない。 息を吐き、目を閉じる。次に目を開くときにはきっと耀の薬が効いて、不調も改善されることだろう。―――一緒に、この惑いも忘れられたらいい。 無駄なことと知りつつ、菊はそう願いながら微睡みに身を任せた。 |
ハッピーエンドにするつもりが思いの外二人が強情すぎてくっつけられなかった。 いちゃいちゃしてる二人もいつか書きたいものです。 |
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