愛を乞う人




 市丸がその人と出会ったのは、現世で生を終えた人間が集まる流魂街の一角だった。いつ自分が死にこの世界に流れ着いてきたのかもわからないほど幼い子どもだった市丸は、お世辞にもまともな生活を送っているとは言い難く、日々を凌ぐのに精いっぱいで、善悪の区別もついていないような状態だった。今思えばよくぞここまで五体満足で無事に生き延びれたものだと自分でも感心するほどである。
 素早さを生かし、時には身体を張って大人から僅かな食料を盗むのが常だったのだが、あるときふと緑の濃い森に足を踏み入れたのが運の尽きだったらしい。人らしい人に出会うことができず、浅い水や木の根などで飢えを凌いでいたものの満足できるような量ではなく、かといって野生動物を捕まえられるほどの知恵も技量もないとあって、ふらふらになりながら何とか人気のあるところに出ようと気力だけで足を動かしていた。
 しかし悪いことは続くようで、生い茂った草に足を滑らせて、市丸は真っ逆さまに崖に転落した。そう高さがあったわけではなかったが、弱っていた身体には相当負担がかかる。自分はこれで終わりなのだろうと、空腹や痛みでぼんやりする頭で覚悟した。
 『―――おい、大丈夫か?』
 だからその優しげで落ち着いた声が自分に向けられたものだとはまるで気付かなかった。そんな柔らかい声は久しく聞いていなかったから、夢かもしくは願望だろう、と。
 しかし思考よりも本能の方が素早く反応し、美味しそうな食べ物の匂いに嗅覚が反応し、腹が鳴った。その音にハッとして市丸は目を見開いたのだ。
 光が射す部屋の中心に小さな囲炉裏があり、置かれた鍋からは湯気が立っていた。その向こう側に。
 『やっと起きたな。』
 笑顔で佇む人がいた。
 ―――大人、だ。
 そう認識してからの市丸の動きは、空腹や怪我を全く感じさせないほど俊敏だった。あっという間に跳ね起き、目に入った出口から飛び出した。
 市丸にとって人、それも大人というものは恐怖と憎しみの対象でしかない。彼らは総じて暴力的で、奪うか奪われるか、そういった関係しか築けない相手だったのだ。
 そんな大人たちに対して市丸の速さは自慢であり武器である。今までがそうであったように、今回も逃げ切ったと思った。
 しかし。
 気がついたら、真正面から抱えあげられた。後ろから追ってくるはずの相手が、自分が逃げる先の前にいたのだ。市丸にとってそれはかなり衝撃的なことだった。
 こんなに速い大人なんて、会ったことがない。
 しかし今は感心している場合ではない。慌ててがむしゃらに市丸は手足を振り回した。
 『は、放せぇ!触んな!』
 『思ったよりも元気じゃねぇか。…痛っ、暴れんなって。疲れるだけだぞ?』
 言われたとおり、すぐに市丸の息は上がり、身体に力が入らなくなった。腹も満たしていない上に怪我も負っているのだから無理もない。市丸がもう暴れない、否、暴れられないと知ると、その人は迷いなく歩き始めた。
 “大人”の腕は市丸の全体重を受けてもびくともしないほど、強い。しかしその力強さに、恐怖ではなく安堵を覚えてしまう自分が市丸は不思議だった。触れたところから伝わる他人の温かさは、暴力を受けるよりももっと泣き喚きたいような衝動を覚えさせるのだと初めて知った。それは決して不快だとかいうわけではない。
 その人が向かった先は、やはり先ほど市丸が飛び出してきた小さな家だった。丈夫さや裕福さからは程遠い、簡素な造りの家で、自分が目を覚ますまでの間きちんと布団の上に寝かされていたのだと市丸はようやく理解した。崖から落ちた自分をその人が助けてくれたのだろうということも。
 『別にここにいたくないならそれでいい。でも出ていくのは元気になってからでも遅くはないと思うぜ。』
 勿論市丸も長居するつもりはなかった。遅くはないと言われたけれども、早急に出ていくべきだと思った。
 ―――ここに居続けたら、いけない。
 今まで感じた恐怖とは違う、自分が自分でなくなってしまうような、輪郭のぼやけた静かな恐怖を市丸は初めて感じ取っていた。
 それから数日は市丸も静かに過ごした。看病してくれるその人は「一護」と名乗ったが、市丸は名を呼ぶことはおろか一言も声を発することをしなかった。ただ怪我を治すことだけを考えた。
 市丸が喋らないことを気にすることもなく、一護は名乗りもしない子どもに向かって好きに話をしていた。基本的に別の場所にいることが多く市丸を見つけた日も三カ月ぶりに来たところだったことや、小さな窓の外を時折通る鳥や動物の名前、好きな歌や料理のこと、などなど。
 市丸はそんなときただじっとそっぽを向いて、できる限り話を聞かないようにしていた。けれどもあくまでそれは“聞かないふり”にしかならず、一護の優しい声は容易く市丸の中に入ってきて心に根付くのだ。
 だから動けるようになってすぐ、逃げるようにして市丸はその家を飛び出した。真夜中の森の中は危険だということは知っていたにも関わらず、それでも一護が眠っているときでもないと、あの優しい声を聞けば、優しい笑顔を見てしまえば足が止まるとわかっていたから、そっとその家の戸を開けたのだ。
 『―――死ぬんじゃねぇぞ。』
 一歩足を踏み出した瞬間、背後からひっそりと声をかけられた。一護は市丸が出ていくのを知っていて、それでも止めようとはしなかった。市丸は一瞬身体を強張らせた後、すぐに駆け出した。何だかわけのわからない、正体不明なものから追いかけられているような気がしながら。
 がむしゃらに走ったのが効を奏したのか、気がついたら森をぬけ、まばらながらも人の気配を感じる拓けた場所に辿り着いていた。走り続けて重くなった身体を、地面が冷たくて固いことなど気にもせず、市丸はその場に倒れこんで暫く嗚咽を漏らした。
 それからはまた今までのような生活の再開だった。大人たちから食料を奪い、逃げ、場所を転々としていく。慣れた生活だ。それに少しずつ身体も成長してきており、今までよりもずっと楽に走れるようになっていた。あの日負った怪我だってすぐに消えてしまった。
 だというのに、胸にぽっかりと穴が開いてしまったような、そんな感覚がずっと消えなかった。前よりも生活は楽になったはずだというのに、虚無感は日に日に強まっていく。
 気がついたら、あの森の中へと足を踏み入れていた。何をどうしようと考えていたわけではない。ただちょっとだけ、ちょっとだけだと必死に言い訳しながら、記憶の限り道を辿り、奥へと進んでいった。
 そう迷うこともなく、目的の家へと到着した。小さなあばら家と言っていいような家。けれどもそれを見た瞬間、市丸の胸は限りない喜びに満たされた。自分はずっとここへ来たかったのだと認めないわけにはいかなかった。
 暫く躊躇いもありうろうろとしていたのだが、結局市丸はその家へと足を踏み入れた。
 しかし―――。
 『…おらへんのかい。』
 家の中に、市丸が本当に求めていた笑顔はなかった。それどころか随分不在にしていたことを証明するかのように埃がたまっている。どうやって顔を合わせればいのかわからなかったから安心する気持ちもあったが、やはりがっかりした気持ちが大きかった。ここへくれば無条件に一護に会えると頑なに信じ切っていた自分の無恥さも恥ずかしい。
 はぁ、と吐き出した溜息がやけに大きく響く。会いたかった。会ってこの前は頑なに教えなかった自分の名前を教えて、呼んでもらいたいと思った。そうして自分も彼の名を呼んで、叶うことなら抱きしめてほしい―――。
 どうしよう、と途方に暮れていた市丸の背後から、扉を開く音が聞こえた。
 『あれ、お前…?』
 まさかと思って振り向いた先に、彼がいた。
 『…一護ちゃん…。』
 初めて呼んだその人の名は、泣き笑いと一緒になった。












続き




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